今回のブログの掲題、吉田兼好の「徒然草、仁和寺にある法師」の一文で、
「何事にもその道の先生や指導者はいてほしい」という意味です。
小学生だか、中学生に習ったのを覚えています。
先日、子供と自由に会えない方々の集まりに参加させていただきました。
多くの方とお話させていただき、非常に思い返すこと、参考になることがあり、
充実した時間でした。
その中で、
小学生になってくるとさらに子供はかわいいんだよという方がいらっしゃったのが、
非常に印象的でした。
その通りだと思います!
一般に、「3歳までのかわいさが一生分」という論もありますが、大間違いですね。
この文の意味を正しく解釈しておかないと、大変恥ずかしい目に遭う。
集まりに参加された方々で、お子さんがすでに成人されている方もいらっしゃいます。
その方のお子さんに会いたい気持ちは、僕となんら変わることはありません。
つまり、いくつになっても(おっさん、おばさんになっても)子供はかわいいのだと。
・・・かわいさの質は変わると思いますが・・・
うちの息子は、4歳です。
今、保育園に通ってます(多分)。来年再来年には、小学校にあがります。
さらに6年後には、中学生です。
今は、会えた時には、「パパー」と喜んで駆け寄ってくれてますが、
片親疎外がなかったとしても、小学生、中学生となると、
友達と遊ぶこと、勉強や部活、学校行事で忙しく、
父親と会う暇がない、会いたくないという時が訪れるはずです。
その方のお子さんは、まさに小学生です。
(片親疎外の影響もあると思いますが)友達と遊ぶこと、習い事が忙しく、
お父さんと会う時間がないと言っているそうです。
しかし、忙しい時間の合間を縫って、試行錯誤し、
短い時間でもお子さんに会うように頑張られています。
僕はこう考えます。
短い時間でもいい、と。
会えたこと、会おうと働きかけたことが、記憶となり、
子供が大きくなった時に、共通の思い出話となる、と。
さらには、会えない(会えていない)時間の過ごし方も大事だと。
子供に見せたい父親の姿を育むと同時に、これも思い出話となります。
さぁ、うちの子もこれから訪れる「その日」の為に、先回りして準備しておかねば。
うちの子よりも大きい子の話を参考にさせていただきながら、
会えないながらの息子の成長に向き合っていきます。
どんな人参をぶら下げてでも、息子と会い続けようと思います。
会えない時間を息子の為に費やしたと思います。
嫌われるの覚悟で、いや父親が嫌われるのは当然です。
嫌われてからがスタートです。
嫌われたことも、父子の記憶となるから。
会えない時、会いたくないと言われる時もあるでしょう、それは目を逸らせない現実です。
会おうと働きかけ方、働きかける中身、それでも会えない間にしておくべきこと、
しっかりと備えておきます。
全てが記憶となるから。
息子との記憶を少しでも少しでも多く、持っておきたいから。
泣きパパ